30年目を迎える美容師の過去、現在、そして未来 vol.53

とある男性美容師の過去・現在・そして未来

 

創業5年で、4店舗。

今なら、もっと速いペースで出店していく敏腕経営者はたくさんいるだろう。

 

 

 

とはいえ、当時としても決して遅いペースではなかったと思う。

 

 

これからだ。

 

もっと組織を強くして、

5店舗……

10店舗……。

当時の私には、

美容室経営は、出店と拡大こそ王道。

 

 

それしか頭になかった。

周りの経営者もそうだった。

 

 

……というより、

そういう経営者としか接していなかっただけなのかもしれない。

 

 

どんどん求人して、

どんどん人を増やして、

どんどん出店する。

 

 

それが「成長する会社」だと思っていたし、

実際、業界にもそんな空気があったように思う。

 

 

会社が右肩上がりで成長していた、そんな頃。

創業時から最初の店長に抜擢し、

実質的なNo.2だったスタッフと酒を飲む機会があった。

 

 

もっとも、彼と酒を飲むこと自体は珍しくもなんともない。

よく一緒に飲んでいた。

 

 

誰よりも会社のことを相談し、

お互いに意見を交わし、

これからの会社について何度も語り合ってきた。

 

 

彼がもともと、

「いつかは独立したい」

という思いを持っていたことも知っていた。

 

 

ただ、創業してからの彼は、

会社とともに成長していくという意思も見せてくれていた。

 

 

だからこそ私も、

誰よりも彼を信頼し、

誰よりも権限を与え、

それに見合う報酬も渡していた。

 

 

実際、彼は多くのスタイリストを育ててくれた。

会社にとって、

間違いなく大きな存在だった。

その日も最初は、

いつものくだらない馬鹿話だった。

 

 

ただ、

いつもより少し酔っているように見えた。

酒が進むにつれて、

少しずつ話の方向が変わっていった。

 

 

会社への不満。

私への不満。

愚痴。

もちろん私も酔っている。

 

 

どこまでが本音で、

どこまでが酒の勢いだったのかは分からない。

 

 

ただ、

彼の話を聞いているうちに、

それまで見ないようにしていたものが、

はっきりと見えてしまった気がした。

 

 

彼が見ている未来と、

私が見ている未来は、

もう同じではない。

 

 

彼の最終的な目標は、

やはり「独立」だった。

 

 

会社とともに大きくなっていくことではない。

いつかここを離れ、

自分の店を持つ。

そして、それまでの間、

できるだけ会社に迷惑をかけない形で去る。

 

 

おそらく彼なりに、

そこまで考えていたのだと思う。

 

 

その後も話を続けたが、

彼がこの会社に残り続ける未来を、

私はどうしても想像できなくなっていた。

 

 

そこで、

別の不安が頭をよぎった。

 

 

彼が独立の準備を始め、

「会社に迷惑をかけない形で辞めよう」

と動き始めたとき、

果たして本当に、

彼一人だけが会社を去るのだろうか。

 

 

彼はNo.2だ。

多くのスタッフを育て、

慕われ、

影響力もある。

 

 

そんな彼が会社の外を向いた状態で、

半年、一年と働き続ける。

 

 

私には、

それが組織にとって良いことだとは思えなかった。

 

 

これまでの経験上、

美容室というところは不思議なもので、

スタッフは「辞めていく人」に強い興味を持つ。

 

 

そしてなぜか、

一緒に働いていたときよりも、

辞めてからの方が強くつながったりもする。

 

 

不思議な業界だ……。

 

 

だから私は、

一つの決断をした。

 

 

彼が思い描いているシナリオよりも、

早く会社を去ってもらおう。

 

売上だけを考えれば、

もちろん少しでも長くいてくれた方がいい。

 

 

彼自身も売上をつくる。

後輩も育てられる。

会社にとって大きな戦力だ。

 

 

それでも、

独立までの準備期間が長くなればなるほど、

彼の未来に感情移入するスタッフが増えていくかもしれない。

 

もしそうなれば、

組織は一気に傾く可能性がある。

 

 

目の前の売上を守るか。

これからの組織を守るか。

 

 

私は、後者を選んだ。

将来的な損失を抑えるためにも、

彼には予定よりも早く退社してもらうよう促した。

 

 

今となっては、

それが正解だったのか、

間違った選択だったのか、

正直、分からない。

 

 

もっとこうしていれば。

もっと話していれば。

違う未来もあったのではないか。

そんな後悔がないと言えば、

嘘になる。

 

 

 

ただ、

不本意な形ではあるものの、

結果として彼がずっと望んでいた「独立」という夢を、

早く実現させることにもなった。

 

 

長く一緒にやってきた仲間が、

会社を去る。

 

 

もちろん寂しさはあった。

 

 

戦力として考えても、

痛くないはずがない。

 

 

それでも、

会社は前に進まなければならない。

 

 

4店舗まで増えた。

ここからまた、

組織を立て直していけばいい。

 

 

5店舗。

10店舗。

私の中から、

その目標が消えたわけではなかった。

 

 

むしろ、

「ここからだ」

と思っていた。

 

 

人が辞めることも、

経営をしていればある。

 

 

問題が起きれば、

その都度考えて、

決断して、

乗り越えていけばいい。

 

 

なんだかんだ、

ここまでだってそうしてきた。

 

 

だから、

この先もなんとかなる。

 

 

たぶん私は、

どこかでそう思っていたのだと思う。

 

 

そんな頃だった。

 

 

テレビやネットで、

中国で発生したという、

聞き慣れない感染症のニュースを目にするようになった。

 

最初の頃は、

まさか自分たちの生活にまで影響するとは思っていなかった。

ましてや、

自分の会社の未来を大きく変えることになるなんて、

想像すらしていなかった。

 

 

新型コロナウイルス。

 

 

それまで私が経験してきた経営上の問題とは、

まったく種類の違うものが、

すぐそこまで迫っていた。

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