想像力の非対称性が生む価値の歪み

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「良かれと思って・・・」

さて、私は日々の仕事において、「わかりやすさ」と「シンプルさ」を何より重視しています。

ビジネスとは本質的に、顧客の抱える課題や欲求に対して、適切な解決策を提示することで成立するものです。

その前提として不可欠なのが、「相手を理解しようとする姿勢」です。

以前、「器の小さい私」という記事でも触れましたが、仕事のできる人間ほど、相手の立場や感情を推し量る“想像力”に長けています。

これは能力というよりも、習慣に近いものかもしれません。

この想像力が欠如していると、善意であっても結果として非効率や摩擦を生むことがあります。

たとえば、贈り物ひとつを取ってもそうです。

食品であればアレルギーの有無を事前に確認するのは、もはや常識になりつつあります。

これは「相手にとっての価値」を基準に考えているから成立する配慮です。
一方で、善意が必ずしも価値に転換されない典型例もあります。

災害時、被災地に大量の支援物資が送られる。

その中には必要なものも当然ありますが、すでに充足している物資が過剰に届くことで、現地の人々に仕分けや廃棄という新たな負担を強いるケースも少なくありません。

あるいは、入院中の同級生への千羽鶴。

祈りや気遣いの象徴ではありますが、最終的にそれを管理し、処分する責任は本人に委ねられることが多い。

いずれも共通しているのは、「送り手の満足」と「受け手の実益」が一致していない点です。

そしてそのギャップが露呈したとき、人はこう考えがちです。


「せっかくやってあげたのに」

しかし現実には、相手の時間や労力、場合によってはコストまでも奪っている。

これはビジネスにおいても同様で、「価値提供」ではなく「自己満足」に陥っている状態と言えるでしょう。

相手の立場に立って考えるという行為は、決して抽象的な美徳ではなく、具体的なリサーチと仮説検証によって裏付けられるべきものです。

丁寧に調べれば、「本当に必要とされているもの」は高い精度で把握できます。

それにもかかわらず、「御社は集客や採用にお困りですよね」と一方的に断定し、営業をかけてくるケースは後を絶ちません。

さらに専門用語を多用し、自分たちの前提で話を進めてしまう。

その瞬間、コミュニケーションは成立していません。

情報の非対称性ではなく、単なる想像力の欠如です。

「良かれと思って提案している」という意識があるのかもしれませんが、それは受け手の理解や状況を無視していれば意味を持ちません。

だからこそ、私はそういった営業電話には出ないようにしています。

結局のところ、どのような仕事であっても、相手の視点に立つ想像力こそが基盤になります。

ビジネスとは、その精度をどこまで高められるかの勝負なのだと思います。

 

その提案は、本当にお客様が求めているものですか?
その提案は、単に自分の価値観の押し付けではないですか?

よーく、考えてみましょう。

……と、ここまで完全に仕事の話になってしまいましたが、本題は別でした。

一般的に、男性には人生で三度の“モテ期”が訪れると言われています。

もっとも、私にはまだ一度も訪れていない気がしますが。

なぜ私はモテないのか。

外見的な要素も多少は影響しているのでしょうが、本質的な問題はそこではない。

振り返れば、私は相手が何を求めているのかを深く考えず、「こうすれば喜ぶはずだ」という自分本位の仮説で行動してきました。

たとえば、「花を贈れば喜ばれる」という安易な一般化。

そこには個別の相手に対する理解が欠けています。

つまり、ここでもやはり不足していたのは“想像力”です。

結論はシンプルです。

だからモテない。

残りの人生も、そう長くはないかもしれませんが——

どうやらこれから三回分まとめてモテ期が来る可能性もあるようなので、少々忙しくなりそうです。

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