「平等」「公平」「お金」について考えてみる①

コラム&雑談

なぜか私たちは「平等」であることが「正しい」と思ってしまう。

お客様に対する平等なサービス、スタッフに対する平等な報酬と教育。

そりゃ、そうですよね。

間違っていない。

 

しかし、果たして「平等」であることは「公平」なのだろうか?

一見、同義に思えますけどね。

 

こう考えるとどうだろうか?

 

A.平等である環境が幸せな人。

B.公平である環境が幸せな人。

 

AとBは、全く同じ人物像でしょうか?



ちょっと話は変わりますが、

日本人は過去の教育の特性上、「富裕層」に対する「ルサンチマン」が強いらしい。

 

ルサンチマン → 怨恨、遺恨、復讐感情。 弱者の強者に対する憎悪をみたそうとする復讐心が、内攻的に鬱積した心理

 

日本人はなぜか「お金持ち=悪」という感情が強く、その悪が成敗されたり失墜することがうれしくてたまらない。心が満たされる。

 

そう、「正義病」である。

 

だから有名人の不祥事が大好物で、そのようなメディアを好んで観るのである。

そのような状態になると、メディアはその国民レベルに合わせた情報ばかりを多く取り上げる。

儲かるからだ。売れるからだ。

 

この国の未来、それこそが自分自身の未来にとっても大きく影響するにもかかわらず、そこに関しては「無関心」で、状況が悪くなった時のみ、誰かしらを悪者に仕立て上げ攻撃に参加するのである。

そして自分とは全く関係のない、実害をもたらすことのない有名人・芸能人を遠隔で攻撃する。

負のパワーに関しては行動力が増す。

果たしてそんな国に、未来なんてあるのだろうか。

 

では30年間経済成長が止まった日本に対し、アメリカはどうだろうか。

アップル、マイクロソフト、グーグル、アマゾン・・・、大企業が生まれ、世界を席巻している。

ツイッターが大統領のアカウントを封鎖できてしまうぐらい、企業に力がある。

そして多くの富を生み出し、還元しているではないか。

武器会社の社長がヒーローになり、大富豪の青年がヒーローになり、悪から街を守り人々を救っているではないか。

そう、お金持ちはヒーローなのである。憧れであり、正義なのである。

 

そしてその富のおかげで「感謝」されるのである。

 

さて、我が国はどうか。

 

越後屋は悪代官と悪だくみ、政府や財閥のトップは汚職にまみれ、企業のトップや役員は不正を暴かれ失墜。倍返しだ。

そう、お金持ちは嫌われ者なのである。嫌うべき存在であり、悪なのである。

 

そしてその富のおかげで「反感」を買うのである。

 

これは徳川家康が千利休といった幕府よりも力を持った商人の国民に対する影響力を弱めるために、「士農工商」といった階級制度で侍を一番偉いとし商人を格下げし、「鎖国」をし貿易を止め国民の統制を図ろうとしたのが始まりだとか。

 

そして本当の意味でのお金の教育をしなかったのである。

お金のことを言うのは卑しい奴のすることだと。

 

つまり、どこかで「平等である」ことを望み、それなのに「格差」に一喜一憂するのだ。

 

 

背の高い人・中くらいの人・低い人がいるとする。

 

塀の向こうの景色を観るために『平等 』の場合は同じ高さの踏み台が与えられる。

当然観える景色は違う。

 

『公平』の場合は背の高さに合わせて違う高さの踏み台が与えられる。

観える景色はみんな同じになる。

 

では、「平等」に与えられた踏み台でも景色が観れない場合、観えている人は「平等だろ」といって、手を差し伸べないのでしょうか?

 

これって優しいですかね?

 

同じ景色を観せてあげたくて、まだ観ることのできない人に踏み台を与えてあげて、一緒の景色を観れるようにしてあげることは、しないほうがいいのでしょうか?

 

だって「平等」じゃないもん。

しかし、

この、できない事をできるようにしてもらえてることは、まさに「富」があるからだと思いませんか?

 

無い袖は振れない。

富があるから、貢献したり寄付したりして人を助けることができる。

 

富はたくさんの人の生活を便利にしたり、貢献したりしていることも多い。

 

人は「もらう」行為よりも、「与える」行為の方が幸福感は高いと言われている。

 

つまり、「与える」ことができる人間をめざせば、感謝もされ幸福感も増すわけだ。

そして何より、そういう姿を見せてあげること、その姿に憧れ、自分もそうありたいと思って行動する人がたくさんいればいいのだ。

 

感謝され、幸福感を高めること、

 

それが「稼ぐ」ことであり、「お金」の真の姿であってほしい。

 

続く、のか?

 

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